死ぬかもしれないから、言っておきたいこと。
肺炎は実はぼくも昨年の秋になった。
体力が落ちていたり、抵抗力が下がっている状態での肺炎はとても怖い。
お年寄りなんかもそうだけど、直接の死因は肺炎だったりすることは多いのだ。
病院では、そのまま死ぬ可能性にも言及されたので、セデーションはぼくもお願いした。
意識があるのに、じわじわと呼吸ができなくなるなんて、想像もしたくない。
こうして普通に話したりしているけれど、絶えず死ぬ恐怖はつきまとう。
努めて明るくしていないとダークサイドにいとも簡単に持っていかれる。
もう、こういうのは元気な人に分かってくれ、と言ったところでわかるはずもないのだ。
これは家族も同じなのだと思う。
セデーションは家族からは大反対されたが、ぼくは「そうなったら、もう勘弁してほしい」と懇願した。
延命治療は基本的に自分ではない人のためだ。
自分の命なのだから自分の意思で終わりたい。
そういう事がままならないのは、難しい問題を孕んでいるとはいえ、どこか釈然としない。
冷静に考えてみても、また実際医師の言葉から判断しても(もちろん、医師ははっきりとは言わないが)、周りの人から比べれば、ぼくはかなり早くにいなくなる。
つまり誰かの記憶に残っていくという事実の絶対数が多くなるかも知れない。
そういうのなら、それらの記憶はなるべく元気で明るく楽しいぼくの記憶であってほしい。
ベッドに縛りつけられて苦悶の表情の記憶など残したくない。
一日に一度は考えてしまうこと。